自分の能力等を客観的に自己評価することの困難さ
自分の能力、才能等といったものを自己評価することは非常に難しいものだと思う。
私はかつて自分の能力を過大評価するくらいなら過小評価するくらいの方がさらに自分を向上する気になるために良いのではないか、というような考えでいた。
だが、種々の経験をして「過大評価も過小評価もいけない」と思うようになった。
たしかに仕事は出来る人で、経歴は立派な人だが、他人との接し方を彼の中の他者の能力評価で決め、他人に対して同僚から嫌われてしまっている人がいた。彼は自他に対して厳しい基準を設けている人で向上心も強い人だったが、彼の言動の節々を観察すると、自己を過大評価しすぎるきらいもある人だった。
一方で、自閉症スペクトラムを患い、その中でも頑張って働こうとしている後輩がいた。彼は仕事はあまりできない方で転職もされていたのだが、色々なことに関して自己評価が実際に仕事がなかなかできないという以上に過小だった。「自分ができないことって嫌になることも私自身も多いけれど、私も学生時代の師に言われたことがあることで、自分より優れている人を沢山みてしまうと、自分の持っているもののみすぼらしさや能力等にうんざりしてしまうことがあるかもしれないけれど、常に皆自分の持てる手牌で勝負しなければならないし、あまり自己を過小に評価しすぎるのも、貴方を信じて仕事を任せてくれている人に対して、その信頼に対して失礼なことになるかもしれない」みたいな話を直接彼にもしたこともあった。
この2つの事例を考えるにつけても、自己の能力、才能等のような評価って過大でもなく過小でもなく、正確に評価することって必要なのかもしれないが、非常に難しいと思っている。
また、自己の過小評価は、自分が簡単に出来ることが出来ない他者への不寛容にもつながる。生きる上で人は中間的な目標を立てて行動し、その目標が達成されると次の目標へと歩を進めるようなやり方を取ることはよくあると思う。その際に、自己評価が過小である場合には、「自分が既に達成した中間目標」を過小評価して、簡単なものと見てしまうことに導きがちだ。それが依然出来ない人に対する評価を厳しくしてしまうことがあると思う。
人には出来ることと、どんなに努力しても出来ないことがある。
私は、小学校の頃、その学校の教諭に「人間の身体の構造上、努力すればどんな人でも逆上がりは出来るようになる」と言われた。私は逆上がりが出来なかったので、何週間も補助具付きの鉄棒で居残りで練習させられた。練習のときに教諭に身体を支えられて鉄棒にくっつくようにして補助を受けて回して感覚を教え込むような指導も受けた。しかし、結局、逆上がりが出来るようになることはなかった。私は十分に努力はしたと思う。
今では、私は他に他者が出来なくて私は出来るということも多いし、鉄棒が出来るようにならなかったこと自体に特別な思い入れもないが、「努力すれば誰でも出来る」と言われて、出来るようにならなかったことに対して、その教諭からその絶望を補償するような言葉は何も受けなかったというのは今でも心に残っている。
努力すること自体も才能だ、ともいう。自分に出来ることでも他人にとってはどんなに努力しても出来ないこともあるかもしれない。だが、その人には自分以上に才能があるなにかがあるかもしれない。
だからこそ、自分が出来て簡単に思えることでも、他人に「簡単に出来るはずなのになんで努力しないんだろう」と思うようなことはやめた。その人がノウハウがなくて苦しんでいる場合で、客観的にみてそれがあれば効率的に出来るような場合には、その人を助けようとすることはあるけれども、他者の努力不足を責めるような考えはやはりひどいと思うから。
さて、話を自己評価の話に戻す。
ベストは過大でも過小でもない自己評価だろう。
しかし、ここで、中年の独身男性は、middle age crisis(中年の危機)と言われるような精神状況になることも多いと思うし、それに輪をかけて昨今、独身の中年以上の男性には何を言ってもいいというような社会的風潮もあるような気もしている。
独身の男性の平均寿命が短いというような話もある。中年期に自己評価が過小となり、セルフネグレクト的な過ごし方をしてしまいがちなのもその一因になっているのではないか?
そう考えると、自分も属する「独身中年男性」というカテゴリでは、自己評価を過小とするよりは若干過大としておく位の方がセルフネグレクトに至るリスクの低減という意味ではメリットが多ではないか?という考えに最近は至っている。
self-motivatingな要素になるならわずかに過大な自己評価であったり、便宜的に用いる過大寄り、あるいは過小寄りの自己評価というのはアリなのかもしれないとも思う。本来は、正確な自己評価をする能力というのがあればそれに越したことはないのかもしれないが、特に精神的な部分などは定量化が難しいものだから、正確な自己評価はやはり難しいものだとつくづく思う
最近買った本
勉強のモチベ維持になるといいかなと思って、「独学大全」を買いました。AmazonのKindle版は持っていたのですが辞書的な本なので、検索性に乏しく。
それと、志賀国際の「電気系特許明細書の書き方 改訂版」も買いました。改訂版が出ていることはつい最近まで知らなかったのです。前の版は持っていたのですがAI関連で加筆があったとのこと。
クレームドラフティングの本だと、葛西泰二「特許出願のクレーム作成マニュアル」が一番有名ですかね?知り合いの技術者で持っている方は多かったです。
クレームドラフト関係の本は仕事道具なので何冊も持っています。米国クレームとの関連を記載したものも持っています。
ただ、本は何冊も持っているものの私自身はクレームドラフティングに関しては前職の事務所での所内マニュアル(所外秘だったので内容の詳細は書けませんが)と、OJTでの指導とに依るものが大きいですかね。中間処理は何百件かやったのですがクレームドラフトに関しては永遠に修行中なので、お客様の案件に取り組みながら毎日磨きをかけて…ということをしているつもりではいますが。
やりたい勉強
とりあえず技術・法律・英語の勉強をしたいなと思っています。
技術に関しては、担当顧客の技術内容(技報やデータシート)を読むのとともに、昔専門だった数理物理周りの錆びついている知識を少し活性化させるような内容を読めたらと思っていますし、法律は知財以外の六法をもっと学んでいきたいと考えておりますし、英語はTOEICは数年前、一段落いくところまで学習できたので、単語力を強化して英検の勉強をしたいな、などと。
TOEICは900のスコアでも9000ワード程度の知識があれば到達可能と言われていますし、英単語は他の勉強で担保しなければならないかなと。TOEIC以外だと英検準一級や一級の勉強をしていくがいいのかな…とは思っていますが…
知っている方で放送大学に通って勉強している方がいて、オンライン英会話等でも勉強しているようですが、そういうのもいいかもしれませんね。私は業務でも日英・英日の翻訳や翻訳チェック経験があり、読み書きはある程度出来るのですが、会話力は我ながら不十分だと思っており、単語力も不十分だと思っています。
やりたいことは色々あるのですが、元々平日の業務が残業が多く遅い帰宅となる日も多いので、時間管理・モチベーション維持が中々難しいですね
判例・裁判例
普段、業務をしているときには、直接的に判例・裁判例の知識が役に立つことはやや少なく、実際には法律自体より審査基準の知識の方が役に立つことも多い気はしています。
実務にも影響のあった裁判例としては、プロダクトバイプロセスクレームに関わる裁判例(プラバスタチンナトリウム事件)がありましたが、その後、審査基準の改定がされてからは、判断がどうされるかの目安も見えてきたのではないかとの話も聞きます。
とはいえ、あまり自分自身の担当案件でその関係の拒絶理由を多く受けたことはないので、今どうであるかについて、そこまではっきりしたことも言えませんが…
プロダクトバイプロセスクレームの後の最高裁判例として気になったものでは均等論(マキサカルシトール事件)に関わるものや特102条に関わるもの(美顔器事件、二酸化炭素含有組成物事件)等はインパクトは強かったですが、出願・中間系の業務を行う限りにおいては、直接的に業務のやり方に大きな影響を与える裁判例というのはあまり多くはない気もしています。
それにしても、資格試験の勉強をするならば規範を定立した、過去問に出ている知財判例等はキャッチアップしやすいですが、実際に実務を意識した内容だと中々キャッチアップするのも大変だなという気もしています。
大手の特許事務所の裁判例の解説ページ等を読んだり、周りの人が噂しているのを聞いて重要そうなものをチェックしたりしますが、それでキャッチアップできるかというと中々容易でもないですね。
侵害訴訟で大きな事件があるとニュースになっていたりしてそういうのもチラホラと見はするのですが、規範定立をしているもので、実務に影響のある形でないとどこまで読んだものかというところも思うものです。
弁理士試験の受験機関が長期休暇に集中講義で裁判例をまとめた講義をしたりもすると思うのですが、規範を定立した重要なものを扱っているという意味では重要かもしれませんが、実務への影響のある裁判例をピックアップというと試験に出る裁判例とも必ずしも一致しないところもありますし。
暫定的な結論としては、私見では、実務者がある程度早い段階でキャッチアップしていくには、弁理士クラブが発行している「判例70選」あたりを読んでいくのがよいのかなとは思っているところではあります。